大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?26
このようにして日本はソ連から見える弾圧を受け内からはアメリカによる巧みな精神解体が進んでいきました。
一体、シベリアに送られた日本人は何人居たのでしょうか。その数は今もって定かではありません。65万人が定説ですが捕虜の総数は200万人以上であったという説もあります。その最大理由はソ連崩壊に伴い終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人(40%)が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと分かってきたことによるものではないでしょうか。
そうであれば異国の極寒地・シベリアで亡くなっていった人達は一割の6万人という数字も、これからの調査で大きく変わってくる可能性があります。帝政ロシア時代より、シベリアは流刑の地として使用されており、政治犯などがシベリアへと送られていました。ソ連成立以降の「シベリア送り」は、国内でも反革命分子とされた人間に課されたものでしたから 日本人兵士は殆どソ連では死刑に類する政治犯同様に扱われたことになります。
ウィキペディアより引用↓
1947年(昭和22)から1956年(昭和31)にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われました。帰国せずにソ連に残留して帰化した人、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した人もいます。一方、兵卒や下士官を中心に抑留中の教育によって共産主義に感化された人が多数います。冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められています。
信憑性は分かりませんがアメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もあるようです。
1947から1956にかけて帰国事業が行われたという事は最後の人は10年抑留された事になりますが日本は旧・ソ連、現ロシアに損害賠償さえ要求していないようです。 国が国と国の約束を破ったというのにです。尚そこに100万の人が生活しているとしたら間違いなく半数の50万は女性です。彼女たちはどうしたのでしょうか。手厚く本国・日本の内地にソ連人が送り届けてくれたという記録は無論一切がありません。
筆舌に許されないほどの悲惨な死であったことは想像に難くありません。私は そこまで調べることは出来ませんが将来そうしたチャンスが与えられたら彼女たちの霊が安らかに眠れるように、その本当の実体をつまびらかにしたいと思っています。 そうして今の女性に、そうした先人があって今、私達が生きていることを知って欲しいと思います。