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大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?46

溥儀(フギ)は1934年に満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となりました。これに伴い正式国名が満洲帝国となりました。1937年、溥儀(フギ)の弟の溥傑(フケツ)が、天皇家に繋がる名門華族の嵯峨家(旧姓・正親町三条家)令嬢の嵯峨浩(サガヒロ)さんと結婚。つまり朝鮮に嫁いだ梨本宮方子(マサコ)さんと同じ形を取った事になります。溥傑(フケツ)は、これに先立つ1935年には昭和天皇の招待により日本を公式訪問するなど、溥儀以下満州国の王族は日本及び日本の皇族と密接な関係となりました。余談ですが溥儀(フギ)溥傑(フケツ)の一族である愛新覚羅・顕シ(漢字が出ません)は川島浪速の養女となり「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と云われた川島芳子です。

さて溥儀が初訪日した際には昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行くという、日本の歴史上無い異例の歓待を行なっています。なお、訪日を記念して日本政府は記念切手を4種発行。日本国民からも熱烈歓迎で迎えられました。大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦により、日本が連合国と戦争状態に入った事から満洲帝国も日本に追随しました。

しかし、日本軍とイギリス軍やアメリカ軍、中華民国軍との戦闘地域から離れていることや、満州帝国の事実上の宗主国である日本と隣国ソビエト連邦との間にあった日ソ不可侵条約ですが。ソ連満州帝国を承認してはいませんでした。(承認していたとしても不可侵条約は破っていますので、それほど意味がないのかも知れませんが)兎も角、清の王朝を代表する溥儀(フギ)が認めたものを第三者であるソ連は認めてはいませんでした。

1945/8/15に終戦。その2日後に8月17日に満洲帝国の解体が決定。溥儀(フギ)は満洲帝国皇帝を退位し溥儀や溥傑、吉岡ら満州帝国の首脳陣一行はソ連軍の空挺部隊に捕らえられ直ちにソ連領内に移送され、さらにソ連極東部のチタとハバロフスク強制収容所に収監されました。極東軍事裁判東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下で東京へ護送され、ソ連側の証人として出廷。ソ連に有利な証言を強要されました。「自分の立場は日本の傀儡以外の何ものでもなかった」と主張させられました。その後、中華人民共和国で「戦犯」としてハルビン政治犯収容所に、弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満州国の閣僚や軍の上層部らとともに収監されました。1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦されました。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も1960年11月20日に釈放されました。

これを私流に解釈すると自国の王家、王の事は無視して毛沢東共産党軍・紅軍)と蒋介石(国民党軍)の覇権争いがあったので追われた王家は日本を頼り日本は庇護したという事になります。ロシアは満州帝国を認めないとしましたが本来認めるか認めないかというのも越権行為で世界が認めた帝国がロシアではないのですから認めたくないだけのことであって認めないはどういうつもりということになります。

元々ロシアにはニコライ皇帝がいました。しかしレーニンマルクスの思想を受けて社会主義政権を樹立。その際にロシアからソビエト連邦ソ連)とします。これに先立ちレーニンはニコライ皇帝とその一家は全員(皇帝・妻・子供6人)を処刑しロマノフ王朝は崩壊しました。共産思想は立前が平等ですから皇帝王朝制度を否定します。現にロマノフ王朝朝の圧政が続いた事から階級闘争を第一にかかげる共産主義政権が生まれています。その思想を毛沢東も 当初蒋介石も模倣しようとしたのですから清王朝は眼中にはなかった訳です。

ですから日本が当時のソ連に奪われれば天皇家は間違いなく解体され日本の男の殆どはシベリア行き、そして第一に施されるのはソ連語の習得と共産主義思想の教育だったことでしょう。統治するに当たって日本の誰を金日成キム・イルソンにしたのかは分かりませんが現在の北朝鮮は日本であったとしても不思議ではありませんでした。

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