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「甘えの構造」を読んで⑤

日本人の詫びに対する感受性の高さを示す文章があります。
とても感銘したので、少し長いのですが、抜粋したいと思います。

ラフカディオ・ハーンが「停車場で」
日本人の罪に対する態度を実に見事に書き出していると考えられるからである。

強盗をして一旦捕まった後、巡査を殺して脱走した犯人が再びつかまって熊本に護送されてきたところから恥じます。駅頭に詰めかけた軍中を前にして護送してきた警部が殺された巡査の未亡人を呼び出す。その女の背には小さな男の子が負ぶさっていたが、その子に警部が語りかけて、「これがアンタのお父さんを殺した男ですよ」と告げたのである。すると子供は泣き出し引き続いて犯人が「如何にも見物人の胸を震わせるような悔悛の情極まった声で」次のように語り出した。

「堪忍しておくんなせえ。堪忍しておくなせえ。坊ちゃん、あっしゃあ、何も恨み二組があってやったんじゃねんでござんす。ただもう逃げてえばっかりに、つい怖くなって無我夢中でやった仕事なんで。・・・・・・あっしゃあ坊ちゃんに、なんとも申し訳のねぇ大それたことをしちめえました。ですが、こうやって今、うぬの冒した罪のかどで、こえから死ににいくところでざんす。あっしゃあ死にて円です。喜んで死にます。だから坊ちゃん。・・・・・・どうか可愛そうな野郎だと思いなすって、あっしのこたあ、堪忍してやっておくんなせえまし。お願えでござんす・・・・・・」

やがて警部は犯人を連れて、その場を立ち去ったが、するとそれまで静まりかえっていた群衆が「俄に、しくしくすすり泣きを始め」そればかりが附ぞいの警部の目にも涙が光っていたというのである。

どんな日本人でも、その精神の内の大部分を占めている、我が子に対するこの潜在的な愛情、これに訴えて罪人の悔悛をうながした天に最も深い意義を認めている。ただ今一歩解釈すればこの場合、班員は子供を可愛そうと思うと同時に、自分も実はこの子供と同じく惨めであることを悟ったとはいえないであろうか。彼は謂わば、この際子供と同一化していたのである。

「すまない」という言葉には度々説明したように相手の好意を懇願する意味が含まれている。「申し訳に」といっても同じ事である。それは言い換えれば、甘えられた義理ではないがしかし許して欲しいという意思表示である。

この世に日本では謝罪に妻子相手に対し本質的には用事の如く懇願する態度をとり、しかもそのような態度は常に相手に教官を呼び起こすのである。群衆がすすり泣いたのも、ただ子供のためばかりでなく。悔悛している班員のためでもあったといって過言ではない。むしろ群衆の目には子供も犯人も、この際軍前一体となって移っていたというほうあより性格であろう。なおこの話は明治初年のことである。しかしそれでも尚、同じ様な心理が日本人の内に、働いていると信じられるのである。

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