「わたしが子供だったころ」を見て②
張本さんは 在日韓国人でした。
張本さんの友達の韓国人は、馬乗りになって四つんばいにされ、スリッパを口に加えさせられ尻を叩かれて「朝鮮人、歩け歩け」と同級生にはやし立てられました。見るに見かねた張本さんは 何回も助けました。
張本さんは、広島の原爆のピカっと閃光した瞬間を見たそうです。まだ
小学生にもなっていない頃の話ですが、今でもハッキリ覚えている様です。
お姉さんは大変な被爆をされ、水が欲しいという娘に母親は全身ケロイドで、苦しむ娘さんの為に自分の着ている服を千切り、どぶ川に浸した物を娘の口にあてがい、水とは言えない水を与えました。
「ありがとう おいしいわ」という最後の言葉を遺して張本さんのお姉さんは亡くなっています。
広島の原爆ドームを尋ねた張本さんでしたが、 広島球場には何回も来ているそうですが、そこから大した距離の違いもないのに、じっくりと見た事はなかったそうです。
プロ野球選手を目指した最大の理由は、金を得て、六畳一間からお母さんに抜け出させて家を建ててやりたいという想いからでした。
「それには、人の二倍三倍練習し、それに、不自由な右手もあって、遊ぶことはしなかった。サボればライバルに負けると思った。夜中の2時3時までバットを振った。休めば後退になるから頑張った」と言っていました。