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<アナログ勉強からデジタル勉強法①>

 私の弟は勉強嫌いです。特に「覚えることが面倒だ」といいます。

 でも、弟が4歳の頃、日曜は朝早くから起きて7時になると、ひとりでテレビをつけて戦隊ものと次に始まる目的の仮面ライダーを、じっと見ていました。

 本屋で仮面ライダーの絵本のようなものを見つけたら、目を輝かせて欲しいと言い出しました。母が子どもの日に動物園に連れて行った時には、象とかライオンを見せても、直ぐに飽きてしまい。「帰りたい」といって、帰って来るなりビデオで仮面ライダーを見ていました。

 母と私が呆れて、「仮面ライダーは本当は居ないんだよ」というと、それは分かっているようでした。耳から覚えるのか、どこが違う、仮面ライダーに敵対する敵の舌を噛むような名前も、絵本と照合して全て覚えていました。

 つまり、覚えることは面倒だという前に、興味のあるものは覚えるという意識が働く前に覚えているといった印象を受けました。最近は中学生になったので下火になりましたが、遊戯王カードという難しいルールのあるカードゲームがあって、それに4年も夢中になっていました。

 ある時、一人でカードを畳に置いて仕切りに考えているので、何をしているのだろうと聞くと、強い相手がいて、その子は、お兄ちゃんも一緒になって考えているので強い。何とか勝ちたいと言いました。

 これが勉強なら、「アイツはずるい。お兄ちゃんに教えて貰っている」と、やっかむところです。しかし、遊戯王だと、そうはいいません。ずるいとか言う問題よりも目的が勝つことにあるからです。

  実際、どんなに勉強が苦手な子も、この遊戯王が出来ない子はおらず、夢中になって、ルールを覚えていることを知りました。

  松下村塾以来、もう150年も立つのに、大半の子供は学校嫌いで勉強嫌いです。それが本質です。しかし、そこに吉田松陰のような人物が登場すると飛耳長目(⇒全国から情報を集め。正しい眼で真実を探し出す)の精神だけで、木戸孝允(桂小五郎)高杉晋作伊藤博文井上薫久坂玄瑞山県有朋前原一誠という、粗末な建物、少ない本と筆と和紙だけで明治の夜明けの立役者が生まれました。

  実際  学校の勉強は、数学を除けば大半が記憶脳を頼りとするものです。しかし、もう、それは時代錯誤です。異論、反論があるでしょうが、確実に今の勉強方法は、記憶するというシステムからいって理に適っていません。

 長台詞で知られる橋田寿賀子ドラマ。所謂、橋田ファミリーの役者達は、その長い台詞を覚えるのに、皆、独自の記憶術で対応しています。誰一人としてみんなでワイワイがやがややっている中で覚える人は居ません。つまり誰もが孤独になって繰り返すことで覚えています。

 ところで橋田作品は何故、長いのか。それは手書きだからです。手書きは必ず繰り返しが入って長くなります。文章の構築が出来ないからです。余談ですが、橋田作品では「しかし」「だけど」「もしかすると」「でもな」といった台詞が全て「けど」と言う台詞になっています。

「お母さん、お母さんの気持ちも分かるよ。だけどね」と娘が言うとします。

これが亭主だと「お前の気持ちも分かるぞ、しかし、お前も言い分を聞けよ」

これが小学生の子供だと「お母さん、お母さんの思っていることは分かるよ。でも僕は、そうじゃなかったんだ。ねえ、お母さん聞いてよ」

 というように変わります。しかし、橋田作品は「けど」で統一している傾向があります。

 接続詞こそ、その置かれている人の社会的位地や環境や立場で変わると思っている私としては、違和感が残ります。恐らく、演じている俳優さんも気が付いているのでしょうが、権威には逆らえないのかなと思ったりしています。

 例えば、これがワープロソフトを使った場合、小百合という登場人物だけを検索して、小百合の言った、「けど」を全て「だけど」に置換すれば、なくて七癖で、台詞を読んだだけで、小百合だと分かり、個性的になります。これがパソコンで作品を作るときの手書きとの一番の違いであり利点だと思います。

 更に、本論に戻って話をすすめると、私は弟が帰ってくると、学校で何があったのか聴くようにしています。そうすることで、彼自身に過去ログをしっかり認識されるからです。

そうでないと、「学校どうだった?」「昨日とおんなじ」と言う会話ばかりなのです。しかし、昨日と同じようでも、もう一度、リピートすれば昨日と違う何かが発見できる。それが発想であり、それが仕事の出来る脳造りだと思っています。

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