<『小さな親友』という小説を投稿しました。①>
喜劇王・チャップリンが『人生はアップで見ると悲劇だが、ロングショットではコメディだ』と言いました。
私は、この言葉を聞くと遠くから見る山を思い浮かべます。山に緑が絨毯のように敷いてあって、大の字になって寝たら気持ち良さそうだと思いながら、歩いていくと、どこにも、そんなところはありません。
遠くから見ると緑の絨毯が、そこへ行ってみると、針のように伸びた大樹、その下は岩が、園下には小石で、手を広げて大の字になれるところなんて何処にもありません。隣の芝生は青く見えると言いますが、私には、『山の緑は芝生に見える』と言った方がピンと来ます。
今、私の登校した小説に、こういうシーンがあります。
今の裕太は、ただ寂しさと空しさを忘れるために歩いている。それも、私の為に一緒に歩いてくれている。歳を取りすぎた友人に気を遣いながら、時折、作り笑いを私にして見せる姿が痛々しかった。
「――少し休むか」山の中腹に着くと、そこは平地になっていて先ほど居た広場が一望できるようになっていた。私は大きな木の下に座り、背中を大木に預けた。私の隣りに裕太も同じように座って見せた。私は裕太の頭を撫でる。
「裕太。周りの人が皆、幸せそうに見えるか」
「うん」裕太は、素直に頷いた。
「そうか。でもな、同じように、皆から見れば私達、二人だって幸せそうに見えるんだぞ」
「えっ?そうなの」裕太は意外そうに私を見て言った。
「あぁ。皆、それぞれ色々なものを抱えて生きて居るんだ。ここに来ている人の中には、病気を罹っている人も居るかも知れない。或いは、子供が病気がちだから、外の空気を吸わせたくて来ているのかも知れない。もしかしたら、既に死んだお母さんの事を考えて居るかも知れない。それから、お母さんと上手くいっていないから、お爺ちゃんと来ている子供も居るかも知れない。……だからな、自分一人だけが全部の不幸を背負って生きている事はないし、反対に全部の幸せを持って生きられる事もないんだよ」
「そうなのか……」
「そうだ。歳を重ねれば分かってくる。どんなに幸せそうな人でも、何かしら抱えているもんなんだ。それにな、小さい時に苦労すると人は考えるようになる。それがいいんだ。昔、フランスのパスカルっていう人が『人間は考える葦である』と言った。考えるんだ。色んな事を」
「人間は考える足である?」裕太が足を見ながら言ったので、私は落ちていた小枝を拾って葦と地面に書いた。
「あしとは足に非ず。葦だ。花は葦がなければ花を付けられない。書いてみなさい」裕太が、受け取った小枝で地面に書いたので、意味を教えてやった。
タイトルは、友愛ではなく『小さな親友』としました。
落日に向かう主人公が、人生これからの小学六年生の裕太と出会い、色々と人生を教えていく小説です。二人は年齢が離れた親友です。初老の主人公は、孫のような世代の裕太を労り、裕太は主人公を労ります。
主人公は教えることで労り、少年は教わることで主人公を労ります。そこに友情が芽生えます。政治の世界を見ていても、同じ世代は噛みつきあっています。でも、年代が離れると、労りあう事が出来るのではないのかと思いました。
親友とは競うものである。そうかも知れません。でも、労る親友がいてもいいのではないか。祖父と孫ぐらいの年齢差がある親友を考えて書いてみました。