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今、書いている作品

>ねねさん

11月末にドキュメントものの作品を投稿するそうですね。確か以前は800枚と言っていましたね。私も、ゆうき蘭さんはノンフィクションの方が向いていると思います。あと、歴史物もいいと思います。早くプロの作家になれるといいですね。応援しています。

 コメント、有難う御座います。今、書いているものはドキュメントというか私の実体験もベースにしているので、かなりノンフィクションに近い作品になると思っています。

 著名な政治学の教授が政治学とは「人間学である。日本の歴史の中に、何を伝統と見なすか、今を見ている顔の人達によって決まってくる。日本はそこに実体としてあるのではなくて日本とは何かと問うている自分達が居る限りにおいて日本はある」と言った。

 そうだろうか。これでは国が客で個人が主人となる主客転倒だ。荀子は「君は舟なり庶民は水なり水は即ち舟を載せ、水は即ち舟を覆す」と言った。その大前提は水の存在があってこその論理である。

 キリストは愛の前にローマ帝国の圧力に備える防衛を言ったら、易々と結束力の強いユダヤ人が国を追われる事はなかった。そうなっていれば、ヒトラーから600万人も犬のように殺されなかった。その、結束力からイスラエルを建設したが、二千年経っても平和な建設が難しくなっている。邪馬台国卑弥呼が何処にいたのか論争は耐えないが、日本の何処かであったことは確かであるが、それ以前にキリストの『右の頬を打たれたら左の頬をだしなさい』の問題に連なる。

 如何に温厚な個人と国であっても、戦っている最中に、右の頬を打たれ、左の頬を出したなら、それ以上のパンチで殴られ、思わず踞ったら今度は腹をヒザで蹴り上げられる歴史はあっても、我が国もキリスト教国、悪かったと言って右頬を撫でてくれる歴史は皆無である。南米にあったインカ帝国は文化の栄えた国だったが防衛がなかった為に欧州から来たわずかな兵隊に騙され崩壊している。元寇の乱の時に、時宗ではなくキリストなら日本という国はなかった。

 秋に若者達が声を揃えて大太鼓を担ぎ出す。その時、「今年も祭りが出来る。果たして来年は出来るだろうか」と考える者は居ない。それは国があって当然の日本と、いつでも持って逃げられるヴァイオリンを慰めとした人達との違いである。屈強な若者が見てくれと言わんばかりにと太鼓を叩く。流浪のユダヤ人は夜、自分の為に密かに奏でる。屋根の上で誰も襲って来る者がいないことを見定める。だから「屋根の上のバイオリン弾き」なのである。

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