日米安保50周年を考える①
昨日、原稿用紙500枚の小説が出来て、投稿しました。
今年は新日米安保改定から50周年にあたります。それで1968年を中心にしました。この年はプラハの春から始まり12月には三億円事件、翌年の1969年1月は安田講堂事件と戦後、これほど激動だった年はないほど世界も日本も大揺れでした。
何故、こんなにも動乱したのか。70年安保改定に繋がる最も過渡期で、1969年12月の衆院選で予想を覆し自民党が圧勝、社会党・共産党が敗退という事から日米安保が堅持され現在に至るのですが、もし、予想通りだったとしたら、つまり自民大敗退、社会共産、大躍進になったとすると、現在の日本はなかった可能性が大なのです。
何故なら、そうした事態になると今現在、日本に駐留している米軍基地は134ありますが、全てが撤退を余儀なくされます。一方で全共闘世代は自衛隊解体を叫んでいたので、自衛隊もなくなります。その頃を見計らってシベリアからソ連が南下し、樺太・千島を強奪し海産物の宝庫の北洋漁場を奪ったように、目と鼻の先の北海道に食指を伸ばすのは当然。プラハの春をみれば明らかなように、チェコスロバキアは軍隊をもっていたのに、たった8時間で占領されたのですから、自衛隊なき日本を前に北海道が占拠される可能性は、確実だったといってもいいほどです。
そんなことはないという人がいるかも知れませんが、今でさえロシアからミサイルが向いているのに、アメリカという後ろ盾がない丸腰の日本に対し、50年間もそのまま捨て置くような事をする筈がありません。よって北海道まで南下する。これをしった中国が果たしてソ連が日本全土を占拠する事を指を咥えて見ているのか。そうでなくともソ連と中国はイザコザが耐えません。資本主義体制の国に対しては共同戦線をはりますが、実は共産主義国同士は仲が悪いのです。
当然、地理的にも近い本州に押し入るでしょう。時を移さず北朝鮮は九州・四国、或いは韓国も負けじと押し入った可能性があります。歴史を紐解くとベトナム戦争は1965年-75年の10年行われましたが、ベトナムは弓矢一本アメリカに向けた訳ではありません。日本は当時、工業立国に近い加工貿易国で既に世界第二位の経済大国でした。
それほどの冨と技術を持っている国を50年間も放置するとは考えられません。更に言えば、戦後、アメリカ海兵隊を駐留し、小学生に対して米からパン、みそ汁から牛乳、魚・野菜から肉と食文化までを変えて、英語を習わせ自国の日本語より英語の方が価値があるかのように教え、実質51番目の州にするかの如くの政策をとって手間暇掛けた日本に対し、何もしなかったソ連・中国・北朝鮮に一夜にして分捕られてしまうのをアメリカが黙認する筈はありません。
とられるくらいなら焼け野原にしてしまえ。これが狩猟民族の考え方です。その、やりようは東京大空襲、沖縄への攻撃、広島・長崎の原爆をみれば、首都機能を麻痺する上空からの空爆、原爆は十二分に考えられるところです。
そして何故、米軍基地を北海道に置かないのか。それはソ連と対峙すれば直接、両横綱が戦うことになるので、その真反対の沖縄に集中させたと考える方が筋道が通ります。朝鮮戦争があった際、沖縄は地理的に便利でした。しかし、アメリカにとっての朝鮮はベトナムと同じで共産化は嫌でも、当時の朝鮮は特別の技術国家でもなく、アメリカにとって、さほど重要な国ではありません。
つまり共産主義と資本主義のせめぎ合いであって死守すべき国という訳でなかった。ただ、朝鮮全土が共産化すれば、当然、ソ連、中国、朝鮮という赤い包囲網が敷かれるので、その浸透圧で日本が赤化する事の方が脅威だったのかもしれません。その防波堤が南朝鮮、即ち韓国でした。
マッカーサーが日本に来て、非常に理解を示していますが、実に統率された国民で国も身体も小さいのに、働き蜂と言われるように女王蜂を中心に結束力をもつ国と評価しています。後にマッカーサーは帰国後、1951/5/3米上院議会、軍事外交合同委員会の聴聞会で「日本の戦争は自衛のためだった」と証言しているほどです。本来であれば、日本人を悪くいってもいい立場のマッカーサーが日本人を認めたという事は日本の民度の高さを認識していたという事になります。
東条英機は「生きて虜囚の辱めを受けず」と言って、若者を勝ち目のない特攻へと向かわせましたが、自らの番になると散々生きて虜囚の辱めを受けました。世界最強の軍隊は「アメリカ人の将軍 ドイツ人の参謀 日本の兵隊」という話がありますが、これは正にアメリカ史観、具体的に言えばマッカーサー史観なのかも知れません。
つまり、この国は兵隊が一番優れていて将軍が最も愚かな国という系譜を司馬遼太郎さんが「1920年代以降、日本は魔法の森に入ってしまった」というだけあって、人物なき国家となった事から、司馬遼太郎さんは昭和を最後に描こうとしましたが、相当数の資料を集めたのに一次一句、書く事が出来なかったのだと思われます。