婦
政治評論家の故、三宅久之さんと、いつもバトルになるのが田嶋陽子女史でした。 私が渾名をつけるとしたら「辻褄のあわない反日サヨク女史」といいますね。
婦人の婦が気に入らないというんですね。そんなこと感じたことありますか。それで「婦人参政権、婦人会、看護婦」は「女性参政権、女性会、看護師」になっていったわけです。しかし「婦」とは、“女が箒(ほうき)を持っていること”を意味します。これが女史には気に入らない。「女を家に縛り付ける封建的遺制である」というんですね。
手に箒を持った人が即ち「婦」を表している。それはつまり男は小さいときは母親のひざ元で暮らし、成年後は男子専用の集合住宅である「公宮」にすんだ。嘗て男に家はなく、女のところで客として寝泊りしていたに過ぎない。女性は家をもち居室は清掃をし家事をする。「婦」とは父権制が確立する以前の女性が家の主役だった名残なのです。先祖代々の品を祠に納めた。それを護るのが帚(ほうき)で、女の象徴となった訳です。
男以外は全て女性ですが、婦人とは侍の妻のみに使用した文字でした。田嶋さんって、大学の先生でしたよね。だったら語源くらいはと知っていて批判しているのだと思いますが、多分こういっても決して聞く耳を持ちません。
「今の人でそんなこと意識している人いないよ。言葉は変わるんだよ。今の観念でいってよ」とまくし立てる。だから男性は、ある意味をもって“女史”というのですが、そういうときだけ、その通りに受け止めるんですよね。
「箸にも棒にも掛からないサヨク女史」 うん、これもいい。もっというと日本人より支那人、朝鮮人は上等。私に間違いはないと決めつけている人ですから、自分にもそういうところがあるかなと反面教師としてみれば、それなりの価値もあるかなと。