保管

保管場所

元寇

 元寇襲来というと歴史教科書の扱いでは「湾になしの1274年と湾にやっと一艘の1281年に元寇が襲ってきたけれど台風がきて二度とも助かりました。という感じです。元はチンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンが中国に建てた王朝でヨーロッパからアジア大陸全域に渡って世界の2/3を征服しました。だから元寇というとモンゴル人という印象ですが、元寇の主力兵は高麗兵でした。

 この日本には基本的にずっと同じ民族の人が住み続け皇統が継承されているために、今住んでいるそこの国の人は、その祖先からずっと住んでいるのだと思いがちですが、世界の常識は違っていて、特に中国においては元というモンゴル人の王朝と清という満州族の王朝と他民族の人がそこに君臨する事があるんですね。

 話は戻って、それくらい元という国の勢いは凄かった訳ですが、そこを殆ど唯一といっていいほど日本の鎌倉武士だけが阻止して追い返した。時宗は今でいえば中学三年の時に元に恫喝され一二七四年文永の役のとき23歳、それから7年間、二度目の元寇襲来に備えて博多湾に二〇キロにも及ぶ石防塁を作りました。

 この防塁がなかったら二ヶ月間以上も上陸させないで戦う事は出来なかったでしょうし、もし元寇を上陸させていたら船は海の藻屑となって帰れないから一四万の蒙古軍は日本へ居残る事となり、そうであったなら現在の日本はなかった。弘安の役から二年後に心身共に消耗した時宗は32歳で夭折しました。

 どこかの国で「恨千年」という人がいますが、それなら元寇とは朝鮮の前身だったのですから、謝罪と賠償を請求したいものです。

 https://www.youtube.com/watch?v=h96-_Uv9kW8

この記事を読んで良かったと思った方は投票してくださると嬉しいです。

人気ブログランキングへ 

Rogokanseibann_6