チェッとハイは同じエネルギー②
高倉健を悪くいう人はいない。野球でいえば王さんも悪くいう人はいない。健さんも王さんも相手が年下でも○○さんとさん付けで呼んだ。それは兄弟仁義のように親しくなれば「(小林)稔侍」と呼んだ。だがそう呼ばれた稔侍さんは光栄だった。
世に変わり者はいるがバカにされて嬉しい人はいない。そしてやはり健さんと呼べば「はい」と答える。王さんも「はい」と答える。「はい」人間である。そして二人ともスキャンダルがなかった。健さんはどんなに金持ちになっても銀座で飲まなかった。それは何か週刊誌沙汰になれば男、高倉健で売っている看板に傷がつく。渥美清もそうで実際の渥美清はフーテンの寅とは真逆の生き方をした人だった。健さんは大会社の社長、政治家という役職は演じなかったように思う。いつも社会の下流で生きる日本人を演じた。しかし下流にいても日本人で義理人情に厚く不正義を嫌う。アウトロー、それは車寅次郎もそうであった。王さんもストイックでホームランを打つことしか考えていない節があった。私だけかもしれないが王さんのバットは日本刀に感じられた。
柳生十兵衛の父の柳生宗矩は『われ人に勝つ道を知らず、われに勝つ道を知る』といった。剣の道も突き詰めていくと「はい」人間となる。間違ってもチェッ人間ではない。はい人間は求道者で追及する。チェッ人間はけして追及しない。追及の道に立脚していくとチェッ人間でも何故か「はい」人間になっている。求めるものが明らかになるとそのソフトにあわせてハードに心棒が入ってくる。するとチェッがはいに変わっている。