保管

保管場所

ゆうき蘭の弟(現在中学二年) 8/8 NHKスペシャル シベリア抑留を見ました

 NHKスペシャル シベリア抑留を見ました。
終戦直後、中国東北部満州にいた日本軍将兵や民間人が、ソ連によって各地の収容所に贈られた所謂シベリア抑留。厳しい寒さと飢餓のなかでの強制労働。そのかず57万人を越えていたようです。
 日本人全員の帰国は終戦から11年後、昭和31年の全員帰国までに、少なくとも5万5000人が命を奪われました。
 それもそのはずです。氷点下30を下回る冬で長時間に及ぶ過酷な労働、それで与えられる食糧は一欠片の黒パン、雑穀、水のようなスープだけです。力が尽き、噛む力がなくそのまま息絶えてしまう人もいます。
最初の冬が終わる頃には2万の命が奪われました。
 さらに亡くなった友を埋葬するときも、兵舎の裏に薪を積むように積んだ様に高く遺体があり。みんな凍ってるので金棒で外すのですが、足が折れたり。首がはなれたり。もう涙での処分です。
これを「氷葬」と当時の人は言いました。氷の葬儀で氷葬です。
 そんな中、日本人同士の争いが起こります。ソ連民主化したものから帰国させる。民主化に反対する者は最も遅くまで収容所に留め置くという方針を打ち出したのです。民主化とは社会主義思想を身につけ、スターリン率いる支持者になることです。ソ連民主化した抑留者を帰国させることで日本への影響力を強めようとしたのです。
 当然、一刻でも早く日本に帰りたいので、必至になって社会主義の勉強・ポイント稼ぎを行いました。
  さらに、ソ連はこうして日本人自ら民主化推進させる一方。ある仕組みを築きあげていました。日本人捕虜を監視する諜報活動を組織。ソ連に情報を提供する日本人協力者を獲得、こうして日本人を日本人で監視させようとました。目的は反動分子のあぶり出しです。社会主義に共鳴しているようにふるまいながら、陰でソ連に批判的な言動を行う抑留者廃除です。
 抑留者が特に恐れたのは、ソ連に戦犯とさせ投獄させることです。これは、日本に生きて帰ることは途絶えるということと同じです。さらに、ソ連に不利益を与えたという曖昧な基準で裁かれます。
 さらに、抑留者達は帰国が決まっても不安から逃れることはできません。日本への引き上げ船を待つ、ナホトカ港が最後の関門。ここで反動と名指しされれば、再び収容所に送り返されます。ふともらした一言でさえ理由となりました。
 そして、一度反動と言われれば一般の人とはしゃべれません。しゃべると、反動と言われた奴としゃべったということで、吊し上げをうけるからです。普通は知らん顔・赤の他人です。しゃべりたくても、しゃべれない。交わりたくとも交われない。昨日まで日本人同士で仲良くやっていたのが、いつのまにか反共産主義になって吊るし上げられました。歩いていても、「あれは反動分子の歩き方だ」とまで言われたそうです。この吊し上げはさらに苛烈さをまし。自殺に追い込まれる人までもでたそうです。それは、ソ連側が懸念するまでとなりました。
 しかし、こうした苦難を乗り越え、ようやく祖国日本に帰っても困難が待ち受けていました。ソ連で徹底した思想教育を受けてきた抑留者達は、帰国後赤旗を掲げてデモや集会を行う人も現れ、その姿は全国に伝えられました。
 20歳で出生した川辺三男さんが帰国したのは26歳のとき。二人の兄は戦死し、漁師として家を継ぐことになった川辺さんは、新しい漁網の配給をうけるため、地元の組合長を訪ねますが、いわれのない非難を浴びます。
「貴様は共産党じゃろうが。共産党に分けるような配給権はない。日本の漁民がもらう配給券で共産党がもらう配給券じゃない 帰れ」
 椅子に腰掛けていたのを降りて、ひざまづいて頭下げてお願いしましたが
「貴様そんなことするな 帰れ」と職員に「引っ張り出せ」と言って追い出されました。
このように、仕事につくことさえ難しかったのです。思想教育も受けたことありますなんて言えません。
言ったらまた右の方から攻撃をうけ、右へいけば左から攻撃をうける挟み撃ちです。
 戦後から65年シベリア抑留者に対する国の保障は行われず。今年始めて法律による特別給付金の支払いが決まりました。差別と偏見に晒らされながら、自力で暮らしを切り開いてきた抑留者達。しかし、教科書には、こういうことは書かれていません。どうして書かないのでしょうか、書いた方が絶対良いのにと思っています。