黄昏れて
今月中に出す原稿用紙五〇〇枚物のメドがつきました。タイトルは「黄昏れて」としました。
映画『黄昏』は一九八〇年頃、流行った映画で湖畔の別荘を舞台に、人生の黄昏を迎えた老夫婦の物語でヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘップパーンが出た映画だそうです。私は、この映画は見ていないので内容は分かりませんが。黄昏とは、薄暗くなった夕方。夕ぐれ。 昔、「誰(たれ)ぞ彼」と薄暗くなると人の見分けがつきにくい事からできました。私のブログの勇気凛々という言葉と共に廃れて欲しくない言葉です。
私のブログの憲法は『因・縁・果』の法則、それに老壮青が加わります。例えば道を歩いていても老人もいれば、子供もいます。そうして人間社会が出来ています。そんな当たり前の事ですが、これが案外忘れられている小説は多いのではないかなと思っています。
確かに今の自分の視線での解釈で書くのが一番楽なのですが、私はなるべく登場人物の年齢差があること、それと会話を多くする事を自分に課しています。そうなると、皆、標準語というのもなと思い、方言を喋る人が居た方がいいかなと思うのですが、この会話が案外難しいです。「黄昏れて」では、関西女性が出てくるのですが、「この鯛焼き、むっちゃ美味しい」というべきか「めっちゃ美味しい」と言うべきか。この辺のニュアンスの違いが分からず定まりません。何しろ実際には大阪弁に接していないので大変です。
でも、方言は温かいので小説の中のよいエッセンスになります。例えば「ゲゲゲの女房」に出てくる出雲弁。「ありがとう」が「だんだんです」とか「違いますよ」も大阪弁で「ちゃいますやんか」と言わせた方がほんわりするような気がします。
江戸弁も案外良くて「このすっとこどっこい」「べらぼうめ」 などがありますが、使い方が難しくて一歩間違えると時代劇になってしまうのが考えどころです。ところで様々な方言がありますが、高低差が一番大きいのが大阪弁だそうで、高低差が大きいために感情移入が大きくなります。
よって会話の妙味は標準語より大阪弁にあるのだと思います。大阪と言えば、明石家さんまさんです。さんまさんは大阪より東京の方が長いと思うのですが、こてこての大阪弁です。さんまさんが東京育ちでトークも標準語だったらどうだったでしょうか。気になるところです。
言霊と言いますが、大阪の人が人なつこいのは大阪弁にあると思います。まったく日本語の分からない外国人に昔の物語りを聞いて貰うと、標準語には感情を感じず。方言には感情を感じるようです。これは標準語(共通語)は文字言葉で書き言葉、なので感情は伝わらない。しかし方言は話し言葉だからという訳です。特に高低差のある大阪弁はインパクトの大きいので私は大阪弁に注目しています。
それから昭和史の事を書いていると、時代と共に言葉はもかなり変わっている事が分かります。バイクは一九七〇頃はオートバイ、ラーメンというより中華ソバという人が多かったようです。又、ケータイは当然なくて、赤電話、ピンク電話、JRは国鉄で、年配者は省線といったようです。現在は交通機動隊といいますが、当時は白バイ警官といっていました。そうした時代考証で結構、時間がとられますので、かないませんわというところです。
”かなわない”といえば、今年の花粉の飛散量は五〇〇倍だそうで、今から戦々恐々しています。私は杉花粉に、ひのき、ぶたくさ、もありますから一年の大半は花粉症で悩まされています。これで失うGDPは一体いくらなのでしょうか。せめて、この対策くらい与野党一致でどうにかならんですやろか、このくらいはせめて、それこそ友愛の精神で……。