ゲゲゲの女房
朝の連続テレビ小説で人気となった「ゲゲゲの女房」の原作本を読みました。著者はゲゲゲの鬼太郎の作者である水木しげること武良(むら)茂 さんの妻である布枝さんです。
食糧難の時代、”まじめに仕事をしていて一日三食、食べさせてくれる人がいい”と思い結婚したという布枝さん。ところが、新婚生活は想像とは反したものでした。
水木さんの職業は貸本漫画家でした。馴染みのない人もいるかと思うので説明しますと戦後、当時まだまだ高価だった書籍を「買う」よりも「借りる」需要が大きかった為、漫画は貸本という形態をとっていました。こうした貸本屋に多く置かれていた漫画を貸本漫画といいます。今のレンタルビデオと同じ形態ですね。
ひたすら漫画を描く水木さん。朝から晩までGペンのカリカリという音が聞こえます。ある晩、夕食が出来たので水木さんを呼びに行くと左腕がない為に(水木さんは戦争で左腕をなくされています)身体をねじって左の肩で紙をおさえ暑くて汗が流れ落ちる中を一心不乱に書き続けていました。あまりに夢中なので布枝さんは声がかけられなかったといいます。
しかし、そんなに一心不乱に書いていても貸本漫画業界の現実は厳しいものでした。ある時、布枝さんは徹夜あけの水木さんから原稿を渡されます。
恐らく水木さんは自分で届けるつもりだったのですが、フラフラしているので布枝さんが届ける事になりました。この作品を渡せば三万円と水木さんからは聞かされていました。行った先は貧乏そうな出版社。水木さんから話には聞いていましたが、見ると聞くでは大違いと思ったそうです。社長は作品を見るとブツブツとケチをつけ始めました。そうして漸く渡してくれたのは、たった15000円。半分しかありませんでした。
こういう事は本当に日常茶飯事だったようで、注文された作品をもっていったのに頼んだ覚えはないと言われたり、毎日3千円払うと言われて新宿であう約束をしたのに4日目から居なくなってしまって出版社を訪ねるともぬけの殻だったという事もありました。
こんなエピソードもありました。税務署の人が「申告している所得が少なすぎるのではないか」といって水木さん宅へやってきました。水木さんは大声で一喝しました。そして質屋の赤札の束を税務署員の前にグイっと突き出すと退散していきました。その厚さは3センチにも達していたといいます。
長井さんという人が青林堂という出版社をつくり月刊貸本漫画誌を創刊した事で、水木さんは歴とした雑誌漫画家としてデビューし原稿料もきちんと貰えるようになりました。しかし人気が出て売れっ子になり収入が増えても良いことばかりという訳ではなかったようです。あまりにも忙しくて仕事に追われる水木さんに仕事を減らしたらどうかと布枝さんはいいましたが「でも、また貧乏をするかと思うと、怖くて、仕事を断ったりする事は、とてもできない。締め切りに追われる生活も苦しいが、貧乏に追われる生活はもっと苦しい」といいました。布枝さんも貧乏に追われる事は勿論、忙しすぎてフラフラの水木さんをみている時期も怖かったと述懐しています。
苦労してかいたのに原稿料が貰えない。今では想像できない事ですが、当時は作家の立場が一番弱かった訳ですね。それにしても片腕で絵を描くというのですから頭が下がります。私なんて両手があっても描けません。水木さんは 戦時中にニューブリテン島で戦っていた時、玉砕せよと命令が下されました。しかし水木さんの上官である中隊長が拒否。Wikipediaによると
装備も作戦も優れた連合軍の前に、所属する臨時歩兵第二二九連隊支隊長の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、水木が所属していた第二中隊長の児玉清三中尉の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。しかし、指令本部への総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。
また、島の住民にも襲われそうになった。バイエンに配属され、決死隊として夜間の見張りをしていたとき、敵の飛行機から機銃掃射をされた。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海にとびこんで逃げた。水木は短剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還した。
命からがら生還した後に上官から武器を捨てて逃げた事を咎められ、更に「何故死ななかったのか」と詰問されて水木さんは「それは全員、死ななければならない戦いだった。私は生きていてはいけなかったのだ」と述懐しています
映画で見るように死んだ仲間達の夢をみる。「俺たちのことを書いてくれ」という。
この気持ちこそが、どんなに苦しくても水木さんに漫画を描かせた原動力だったかも知れません。そして、水木さんを内助の功で支えた”ゲゲゲの女房”の布枝さん。いつまでもお元気でいてほしいです。