保管

保管場所

人生観と死生観

 http://www.youtube.com/watch?v=naafwbPSTMM

 青山繁晴さんは屋台のラーメンを生業としながら小説を書きたかったという根っからの作家です。だからでしょうか、そう好きでない三島由紀夫大江健三郎も読んでいるようです。

 三島は文学活動を女々しいと思ったのでしょうか。だから、その反動でボディビルとか、『楯の会』の活動をしました。対し女々しくていいと開き直っているのが大江健三郎ではないかというのが私の見解です。

 青山さんは幼少時から「人は絶対死ぬ」と教育されたそうです。これは武士道ですね。武士道とは死生観で次に人生観です。今は反対ですね、一切死を教育しません。従って反武士道です。

三島は武士道を考えすぎた人。
大江は武士道など考えたくもなかった人。
司馬は武士道より、日本精神を考えた人。
清張は、そういう範疇で人をみなかった。

 青山さんは祖国、日本を考えている。だから必ず西暦ではなく皇紀2673年といいます。皇紀とは、日本書紀の記述により、神武天皇即位の年(西暦紀元前660年にあたる)を元年とする紀元。従って西暦に660足すと皇紀になります。

  それにしても自分が一番したいことを一番最後にするという人はそういないでしょうね。これは青山さんならではです。青山さんの頭の中に二人の実在しないフィクション上の人がいるようですが、その感覚で言えば、私の頭のなかには、松本清張司馬遼太郎がいます。

 この二人はまったく違う人生観と世界観がありました。清張は共産主義者、司馬は保守。カメラワークで言えば、清張がアップ、司馬はロングのアングル。作法は清張が推理的、性悪説、世の中は偶然と偶然とのぶつかり合いといい、司馬は解説調、性善説。偶然より必然の要素を感じています。

 司馬は清張に西郷と大久保が、あの時代に歩いて交流できる距離にいた事。しかも大久保が女でも意味をなさないと司馬史観を披露すると、清張は、それは考えすぎで偶然をこじつけているにすぎないといいました。

 司馬遼太郎は二二歳のとき、戦車部隊にいて本土決戦のシミュレーションで一人の兵隊が上官に質問しました。「米が上陸して日本国民を追撃、国民は命からがら軍を頼り縋ってきます。これでは戦車隊は進めませんが」というと上官は「構わん。轢き殺してでも戦車を前に進ませろ」といった。この時、司馬はこの戦争は負けると思った。国民を護る為の戦争が、その国民を、しかも軍を頼ってくる民衆を轢き殺せというのかと唖然とした。

 いったい日本人はどこからバカになったのか、海をみて考え、山を歩き考えた。以前の日本人はそうではなかったのではないのか、それを二二歳の自分への手紙のようにしてかいていく内に作家になっていきました。対し清張は書くことが生活でした。生活苦からものでした。というわけで、路傍の石でも全て形が違うように千差万別です。

 

この記事を読んで良かったと思った方は投票してくださると嬉しいです。

人気ブログランキングへ 

Rogokanseibann_6