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情報化社会⑤ 武士道パート2

 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」

 これは肥前の国(佐賀県鍋島藩藩主・山本常朝(ツネトモ)が葉隠れの中の一説でいった言葉である。しかし山本常朝は恋についても語っていて「恋とは偲ぶものである」と説いた。

 石坂洋次郎原作の青い山脈は一九四九年、原節子主演で映画化された。その本来のラストシーンは高校生の金谷六助が寺沢新子を目の前にして海に向かって 「寺沢新子なんて嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ」と三回叫ぶ。しかし当時は全ての脚本がGHQに検閲されていて、好きなのに何故嫌いだというのだ。民主的でないとクレームがついた。それが硬派の男のありようだったが急遽「嫌いだ」が「好きだ」に変更になった。だが好きだは最上級ではない。その上の嫌いだの方がカタルシスがある。その東洋のメンタルが西欧白人には伝わらなかった。それから青春ドラマというと好きだ好きだ好きだと叫ぶのが定番化、世界の中心で愛を叫ぶというものもあった。ところがこれだけ愛で溢れている日本で恋愛結婚をしても3分の1は別れるという。

 さて武士道とは「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」を時の軍部は多いに利用した。もっといえば悪用した。しかし何故、恋の話をしたのかといえば、物事はそう単純ではないということである。つまり武士とは己の為に刀は抜かない。世の為、人の為に抜刀する。そしてそのときは自分の命を惜しまないという意味である。つまり一つしかない命を自分の意志で消滅させる限り、そこに価値がなければならない。そこから大義、正義がおきてきた。その大義正義が手段、手法にすり替わって勝ちさえすればそれでいいと変わっていった。

 武士道は実に意味が深い。大刀、小刀を常に左手の側に置き、寝所の枕元には刀置き台があり刀の下で就寝する。早い話いつでも死ねる。気に入らないものあれば成敗致す。だがそうした環境でないと生死一如の感覚と武士道は到底理解出来ないと思っている。

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