分かっているようで分かっていない話②
昨日の藤原正彦さんの話に反発を覚えた人もいるだろう。その大半は意味のない事でも伝統となったら続けろというのかという反論である。藤原正彦さんの父親は「武田信玄」「アラスカ物語」を書いた新田次郎。母親も「流れる星は生きている」を書いた作家の藤原ていである。武田信玄は誰でも知っている。アラスカ物語とは明治時代の初頭、日本を離れアラスカにいき、現地の女性と結婚したフランク安田が飢餓に苦しむエスキモーのために尽力し、アラスカ人との交流を描いた実在の人物をモデルにした作品である。 その新田次郎は藤原少年に課したこと。それは女を殴るな、強い者が弱い者を殴るな、これはまぁ何とか履行できる。しかし3番目がキツイ 「そういうことをしている者がいたら万難を排して助け出せ」 例外は一切ない。相手が自分より大きいとか、相手が大人数だとか、つまり相手がボブサップでもやれというわけだ。しかし藤原少年は見て見ぬ振りをしてしまった。すると父親の目を見られなくなる自分を発見し、こんなことなら突っ込んで殺された方が良かったとまで考える。人を助けるには当然、自分が強くなければならない。賢くなければならない。口喧嘩でも相手より勝らなければならない。鍛千日、錬千日、臥薪嘗胆、捲土重来の精神で日々、精進しなくてはならない。 「お父さんなんて嫌いだ」幼児でも反論は思いつく。それだけでも大きくなれる。カールルイスを批判したければ口でいうな、9個を抜く10個の金メダルを取ればいい。そうすればルイスはその苦労を知っているから君に駆け寄って心からの祝福を贈るだろう。だから鰯の頭を拝むのは非科学的だという安易な子供が成長しただけの大人より、彼の履歴を調べ自分と比較すれば、何故故その理論に辿り着いたかに興味がいく。 家康を揶揄して鳴くまで待とうホトトギスを愚弄する人がいるが、山岡荘八の徳川家康を読めば家康の人生がそんな安易なものでなかった事が分かる。例えば家康の嫡男、信康は信長の「信」から取られた名前で信長の長女、徳姫を嫁に貰った。しかし信康の母である築山御前の実の母は今川義元の妹、つまり今川義元は伯父にあたる。自分の腹を痛めて生んだ息子が信長の娘と子を儲ければ築山は伯父、今川義元を殺した血の子供を抱かなければならない。そういうわけで嫁と姑の確執が最初からあり徳姫は父、信長にチクッタ。激怒した信長は家康に築山と信康を殺せと命じた。信康は20歳で果てた。つまり家康は身内より家臣を第一とした訳である。だから私は家康を愚弄しない。その苦労を思う。言葉よりその人格を作った履歴の中にこそ真実がある。 藤原さんの概略を書いておく。 新田次郎、藤原てい夫妻の次男として満州国の首都新京に生まれる。 ソ連軍の満州国侵攻に伴い汽車で新京を脱出したが、朝鮮半島北部で汽車が停車したため、日本への帰還の北朝鮮から福岡市までの残り区間は母と子3人(兄、本人、妹)による1年以上のソ連軍からの苦難の逃避行となった。 小学生の一時期、長野県諏訪市にある祖母宅に1人移り住む。このときの自然体験は、後に自身の美意識の土台となっている。 エッセイではしばしば「武士道」や「祖国愛(ナショナリズムではなくパトリオティズム)」、「情緒」の大切さを諧謔を交えて説いてきたが、口述を編集者がまとめた『国家の品格』(2005年11月、新潮新書)は200万部を超えるベストセラーとなり、翌2006年の新語・流行語大賞に「品格」が選ばれるなど大きな話題となった。