大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?38
こういう実話があります。
今から40年ほど前、田所(仮称)さんは商談をしている最中に突然、商談相手の社長さんから「アンタは日本が韓国にしたことをどれだけ知っている」と聞かれ「え?よくは知りませんが」と答えると「そうだろうな。何にも知らないんだ」 と云われました。田所さんは事務所に戻って、この話を平井(仮称)社長に報告するといつもは温厚な平井さんが激怒して「どうして謝った。謝ったら全て日本人が悪いということになるんだぞ」と言われました。田所さんは「だって、あんまり怒るし、それに勉強不足で知らなかったからその事も悪いと思って謝りました」「だから駄目なんだ。建築屋が建築の事を聞かれて分からなかったら謝罪するべきだが教わっていない事まで謝るのは日本人の間だけだ。教育が教えるべき事を教えないから誤解が誤解を増幅しているだけだ」と云われたそうです。
私はアジアの平和の為にも日本・韓国・中国が友人になる必要性があると思っています。
日韓関係の人で思い浮かぶのは伊藤博文です。彼は入塾した松下村塾で吉田松陰という偉大な師匠と出会い、その生徒であった高杉晋作が結成した奇兵隊で高杉と共に戦い伊藤は後に高杉晋作を『動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし』と称しました。
偉大な先生と偉大な先輩から感化を受けた伊藤博文は鉄砲の弾一つ打たずに朝鮮を合併しました。従って日本は朝鮮を占領したのではありません。仲よく手を握って合併したのです。それも当時の韓国皇帝の未亡人に頼まれたからでした。如何に伊藤であっても朝鮮側にその気がなければ日韓併合は出来ませんから。要請を受けた日本は韓国の皇太子・李垠(リギン後の 李王)に李方子(り まさこ・朝鮮名イ・バンジャ 旧姓:梨本宮方子)という皇族の女性を嫁がせました。彼女は両国の架け橋として旧大韓帝国の李王家の李王・李垠の妃となりました。この方は昭和天皇のお妃候補でもありました。
方子さんが自らの婚約を知ったのは避暑の為、梨本宮家の別邸に滞在していた時に手元にあった新聞を何気なく開いた時でした。(勿論、それまで何の話もなく相手の人の事も知りませんでした)女子学習院高等科卒業後の1920年、李垠と結婚。これは日韓併合後の最初の国を挙げての慶事でした。