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その時、歴史は動いた 間宮林蔵をみて③

幼いときから竹竿を持ち歩き、友達と遊んでいても木の高さや川を深さを測る子供で分からない事が目の前にあると明らかにせずにはいられない性格だった間宮は、その才能を幕府に認められ20歳の時に蝦夷地(現在の北海道)及び周辺の調査を申しつけられました。間宮の仕事ぶりは間宮は勤め元より寒地積雪の時期も厭わず島を廻り測量を続けたとあります。(幕府の記録より)

1807年、幕府の役所があった択捉島にロシア軍艦がアイヌの人々や役人の住む村々を攻撃を仕掛けました。ロシアとの貿易を拒んでいた事への報復でした。幕府の役人は人数では勝るものの実戦経験が乏しく、恐れを成して、たちまち逃げ出してしまいました。その中にあって、只一人、持ち場を死守して戦おうとする男が幕府役人の間宮林蔵 28歳でした。 この時、ロシアの脅威を目の当たりにしたわけです。

一緒に逃げようという仲間に「ひとたび預かった役所から引き下がることなど出来ようか」と言ったとされています。しかし一人では無理だと諭され、間宮はやむを得ず択捉をさります。ロシアの攻撃は幕府に大きな衝撃を与えました。蝦夷地の守りを固めるため、2ヶ月後には函館に3000人の兵士を派遣、そのうち国後クナシリに380人を派遣しました。

しかし万全には程遠い守りでした。何故なら宗谷岬の北にある樺太について幕府は何らも知り得ていなかったのです。当時の地図では樺太ユーラシア大陸に連なる半島として描かれていました。(想像図だったのでしょう)幕府はロシアが本格的に進出してくる前に境界線を定める必要性がありました。

樺太は半島なのか、島なのか」樺太の全部の海岸線とロシアとの境を調査せよ」間宮林蔵に白羽の矢がたちました。間宮は幕府の命令により北海道に
向かう途中、故郷の日立により間宮林蔵墓を建てます。いつ死ぬか分からない旅。『成功の形たたぬうちは誓って帰るまじ。もし難行のせつは吾一任達とも蝦夷地にのこり蝦夷の土となるであろう 「山埼半蔵日記より」』

つまり死を覚悟して間宮林蔵は測量に向かったのです。
1808年、樺太南端に上陸。現地のアイヌ人は誰一人として樺太の事を知りませんでした。そこで間宮と同僚の松田は東西二手に分かれて海岸線を調べていくことにします。間宮は東回りで北上。徒歩で 或いは丸木船を駆使して丹念に記録していきます。間宮の日誌には東海岸にトッショカウッシリと称する山がある。麓より山頂に至るまで岩石累々として登るべからず。名山奇峰と称すべし  
獣は蝦夷島(北海道)にも無き種ありトナカイと称し全体はシカで顔は馬に似て 角は枝多し⇒「北夷分界余話」と当時の様子を事細かに詳細に記録していったのでした。

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