日本とインカ帝国②
日本とインカ帝国① 09/7/19の続きです。
首都クスコからインカ道という道があり、それがマチュピチュに続いています。そこには第9代皇帝 パチャクティ が眠る墓があり、クスコからに冬になると移動。皇帝や、それに仕える人々、1000人が暮らしていました。
マチュピチュが発見されたのは1918年。スペイン〈イスパニア)による破壊を免れたので保存状態がよかった事が幸いし、今も当時の原形を留めています。ウシュヌという高台にある石は、皇帝の玉座とも日時計という説もあります。インカの人々は、石垣が美しい曲線を描くトレオン窓から指す光を観測していたそうで、天文学の知識があった事が分かります。
皇帝は季節を知り、人々に農作業の時期を教えるという役目を持っていました。平地の方がほとんど無い少ない山脈地帯で、豊富な農作物を得られた事が、インカ帝国繁栄の大元でした。じゃが芋、トマト、唐辛子の20種類の農作物がとれていたそうです。独特な段々畑はアンデネスといい、急所を棚田にしています。
ここからは私見ですが、上記の事から分かるように、インカの人々は農耕民族でした。そして現代から見ても高い文化技術を持っていました。私は、日本の天皇も、こうした役目をもって自然発生したのではないかと思っていたので、インカの例をみて、益々その思いを強くしました。
例えば稲作。日本に、その技術がやってきたのは弥生時代だそうですが、インカの皇帝と同じように「この時期に、このくらいの苗を植えなさい」と指示され、そのようにやると豊作になった。その賢者を人々は称えるようになり、やがて、その一族は護国豊穣を願う一族となっていった。
武によって立つ者は武によって滅ぶ。つまり、力を持ってして国民を威圧弾圧し納めても、必ず滅びます。元に武士が武力を握っているのですから、力を持って天皇を排除することも出来たはず。しかし今に至るまで、皇室は存続しています。という事は、やはり人々の尊敬を集め、奉られた経緯があったと考える方が自然なのではないかと思っています。
インカ帝国は1438年から 1533年の95年間続きましたが、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされてしまいます。
スペイン人のフランシス・ピサロがパナマ海峡の南部に黄金の大国があると聞き、カルロス1世にインカ帝国攻略を要請し、これが認可されます。1531年、ピサロは皇帝アタワルパの所在を突き止めると、会見を申し入れ、カハマルカの広場で会うや否やこれを捕らえてしまいます。もちろん、皇帝アタワルパは多くの兵を連れてきており、一方のピサロは数名の従者がいるだけ。しかし、ピサロは浜辺に騎馬隊と大砲を隠しており、これに驚いたインカ兵は次々と殺害されました。
つまり、如何に文化水準が高く、技術のある国でも、防衛がない、或いはしないだけで滅亡している前例があります。「谷川に堤防 海に防波堤 国家に国防」は国としての最低条件です。家を建てる時だって、鍵を作らない人がいるのでしょうか。塀を作らない人が居るのでしょうか。しかも今は、軍艦を配備しても無理です。だって、空から飛んでくるんですから。避けようがありません。墜とされる事が分かっていても何も出来ない。そんな当たり前の事が出来ない国が日本です。