お姉ちゃんがベストアンサーになったので載せます。
質問
堺屋太一さんについて
堺屋太一さんは「団塊の世代」という言葉を作ったり、万博を開催した人だという事で有名で小渕内閣では経済企画庁長官もして、小渕さんが亡くなっても森内閣まで勤めました。小泉内閣でも要請があったのに、もう日本は大丈夫と言って退いたといいます。
その後が竹中平蔵という人でした。そこから、もう大丈夫ではなくなりました。堺屋さんは経済評論家の中でも知名度がある人なのですが、評価が良く分かりません。
何故、小泉内閣になって平気だと言えたのでしょうか。私には理解できません。皆さんは、どう思いますか
お姉ちゃんの答え
堺屋さんは、有名な徳川吉宗の享保の改革を評価していないようです。一般的には尾張は紀州・徳川吉宗と将軍職を争ったために時代劇では悪役のことが多いのですが、尾張藩の7代目藩主の徳川宗春を評価しているようです。吉宗は増税と倹約、倹約の連続で江戸の町は灯が消えたようになったようです。
吉宗政治には一揆も多く朝廷にまで直訴した例もあるようです。江戸時代を通じて、このような例は他にありません。何だか、小泉-竹中ラインの米百俵内閣を連想させます。これ対し、徳川宗春は幕府の倹約令を無視。名古屋城下に遊郭や芝居小屋を許しました。宗春は「温地政要」のなかで「倹約がすぎれば民を苦しめ、かえって負担をますことになる」「好色は飯し食いと同じで人の本能だから規制してはいけない」と書いてありましたが広く一般に知られるようになり、更に宗春はその豪華本を吉宗に堂々と献上もしました。
例えば 宗春は町衆の盆踊りが一番上手かった人に賞金をだしたり、白い牛に乗唐風の陣笠に長いキセルという出で立ちで街を徘徊したりと粋だったとか。宗春は吉宗により隠居を命ぜられ藩主の座をおります。商人達は幕府により島流しになりました。それでも目安箱を聞くと宗春は人々から仏様の再来とまでいわれていたようです。宗春の晩年は、最後、名古屋城に幽閉されてしまい。墓には金網が懸けられるという人生でおわりました。
松平健さんが、海岸を颯爽と走る暴れん坊将軍の吉宗に対して、宗春は中尾彬さんが演じてる事から悪役のイメージですが、堺屋さんは宗春派です。
だから、小渕さんから民間人として経済企画庁長官を乞われたとき、「召集令状の赤紙が来た以上は、お国のために」といってこれを受け、宗春政治を断行しました。小渕さん急死後、次の森内閣でも続投を言われて長官を続けました。まだまだトンネルに入っているが、微かに出口が小さく見えているとか、夜明け前とか、朝の4時頃とか、桜の花が見えるかもとか言っていました。
しかし、森内閣の異常な人気のなさに短命に終わり、次が小泉政権となりました。そこでも経済企画庁長官の続投をいわれましたが、そこで堺屋さんはおりてしまいました。理由は、もう日本は大丈夫という理由でした。しかし、これが間違いでした。
小泉さんは、何でも丸投げの人でした。道路のことは石原伸晃国交相さんと作家の猪瀬直樹さんに、経済は全て竹中平蔵先生に丸投げしました。ですから堺屋さんが降りなければ宗春政治は続いた訳ですが、竹中さんは小渕内閣では、行け行けドンドンの経済戦略会議の委員で宗春政治を、小泉さんになったら竹中さんは吉宗の享保の改革をしたのだから溜まりません。
女は子供を産む機械と発言した柳沢大臣が「銀行は大丈夫です」といっていたのに、竹中さんになったら、いきなり一夜で危ない銀行になってしまいました。当然、堺屋さんは竹中さんと言う人も小泉さんという人もリアルタイムに知っていた筈なのですが。
そう言うわけで、小泉政治とは丸投げ政治でしたから、そのまま堺屋さんが引き続き、長官をしていれば、今の状態ではなかった可能性があります。何しろ『竹中平蔵君、僕は間違えた』と文藝春秋で先輩格の中谷巌さんが、加藤紘一さんは『劇場政治の誤算』の中で政党政治の崩壊、小泉-竹中ラインの失敗を検証しています。特に中谷巌さんは小泉・竹中政治を良しとした事を後悔しています。これが仮に小泉-堺屋ラインであれば話は変わっていたとおもいます。
質問した人からのコメント
その他の回答
堺屋太一さんについては、下記のような評価があります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314516898
小泉改革は、少子高齢化に向かう日本が世界の中で生きて行く上で、必要な改革でした。
経済格差が拡大しましたが、許容範囲の話でしょう。
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