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武蔵と小次郎

 今、書いている小説の中で武蔵について触れるので調べました。私は佐々木小次郎という人は少し細面の青年というイメージを持っていました。多分、以前、大河ドラマで武蔵をやっていたので、そのイメージが残っていたのだと思います。(ドラマを見ていた訳ではありませんが)

 ところが調べてみると、佐々木小次郎という人物は謎で実際にはどんな人だったか資料がとても少ないようです。何せ、佐々木小次郎という名前自体が後生がつけたもので、本当は巌流という名だったようです。巌流島も元は船島といいましたが、戦いが行われた事から「巌流島」と呼ばれるようになりました。

 さて、その佐々木小次郎ですが、実は青年というより4,50代くらいだった可能性の方が高いらしいですね。何でも武蔵と決闘した巌流島の戦いの時に弟子が沢山いたそうで、いくらなんでも、この時代、若者にそんな大勢の弟子はいないだろうと考えられるようです。

 そう考えると、武蔵は当時20代と目されていますから、親子ほど年の離れた二人が戦ったという事になります。それから、私が以前から疑問に思っていた事は決闘に遅れるという事は許される事なのかという事でした。あくまで私の中のイメージなのですが、剣士は件を極める清廉な人物。これが武将で戦ならば、軍略・知略・謀略は当然あると思うのですが、こういう一対一の真剣勝負の場合は、そういったものは剣士にとってあるまじきことではないか。

 つまり現代でさえ遅刻は咎められるものですから、以前であればもっと厳しかった筈。試合に遅刻するという時点で失格なのではないかと思った訳です。それで調べたところ、この当時の決闘は仕官のための自分の宣伝活動の意味合いが強く、結果を出すことが最優先されました。ですから勝てそうにない相手だと決闘の前に出奔する事もあったとか。それも恥として捉えられる事はなく寧ろ当然の心構えだったようです。

 どうも、私の中で「武士道とは死ぬこととみつけたり」という死生観をもっていたのだという先入観念が根強いようです。しかし考えてみれば巌流島の戦いが1612年ですから、ほんのちょっと前までは戦国時代なのですから、それは当てはまらない訳ですね。最も武蔵が遅刻したというのも実際にはしてないかったという説もあり、諸説ある中の一つに過ぎないそうです。

 考えれば考えるほど、有名なのに謎な決闘なんですね。

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