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数学

 数学者でコンピュータ科学者のグレゴリー・J・チャイティンが神の定義は全知全能。しかし神もゲーデル不完全性定理に支配されている。という事は完全ではない、よって神はいない。全て偶発的に起こる事が証明されたそうです。

 しかし中間子論で湯川秀樹さんは自伝的著書「旅人」の中で、科学が全てであると思っている人は、科学者として未熟であるといっています。又、湯川さんは常に真実の追究は少数から始まる。「未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である。地図は探求の結果として、出来るのである。目的地がどこにあるか、まだ分からない。勿論、目的地へ向って真直ぐな道もない。しかし、常に新しい真理の発見は少数派から始まる。それが正しい道であれば、いつの日か多数派になる」といっています。

私は権威というものを疑っています。最近の大権威といえば、黄金のマニュフェストであった『改革を止めるな、郵政民営化すれば、小さな政府、少子化対策地方財政が潤い安全保障、年金・医療の社会保障が充実。戦略的外交も推進そして外交まで良くなる』でした。これたった6年前ですよ。結果どうでした。全て逆でした。

しかも経済学の大権威の竹中平蔵先生が小渕政権の2000年5月から、諮問委員で森、小泉と足かけ8年も日本経済に君臨して、アメリカから高い評価をえて、工程表なんて良くいっていましたが、それは自民党崩壊の工程表でした。『竹中平蔵君、僕は間違えた』と文藝春秋で「資本主義はなぜ自壊したのか」を10年葛藤して書いたという中谷巌さん。加藤紘一さんは『劇場政治の誤算』の中で政党政治の崩壊、小泉-竹中ラインの失敗を検証して間違いでしかなかったと結論をだしました。それでも郵政民営化の劇場型の選挙は確か内閣支持率が92%までいきました。それはつまり国民の大多数が郵政民営化に賛成していましたが、それは日本経済破滅の道でした。

数学とは違う、とんでもない。富士山に登るにも、須走口、御殿場口、冨士宮口、富士吉田口と四つもありますが、最後は頂上への道です。優れた文学は実は理性的であり、優れた数学の究極は情緒的でもあります。という私は数学が苦手なのですが、その全てはたかが数学、されど数学、つまりそのたかが権威、されど権威というものです。今も尚、権力政治が続いていますが、当たらない権威など無価値です。最後は勘の世界だと思います。逆転の発想でいうとですね。卵から雛が雛から鶏になるのを論理的に語れる人はいません。

 ダイエット本がその都度出て話題を呼びますが、一度として食べずに太る方法なんて本は出たことがありません。それはつまり食べなければ太らないという証明です。これが答えです。哲学者であり数学者であったデカルトは『我思う故に我あり』全てを疑ってみても我だけはその存在を否定できないといって、自分を所有・使用・管理している自分が実は何故生まれ、何故死ぬのかを説明できていません。故に大きな他があると考えた。そこで他はない。全て偶然であるというと、かなり迫力と説得力があります。

処で、以前書いたブログにコメントがつきました。

下記コメントの中の「知恵袋」とは私が以前、知恵袋に質問した事をさしています

他力本願という言葉について。

他力本願という言葉について。

五木寛之さんが、蓮如の後に親鸞を書いてべストセラーになっています。
五木さん曰く「世の中が鬱だから売れている」と分析しています。又、何かの力で背中を押されて書いているとも。五木さんは文学者ですから、それを他力の風、と言っていました。所謂他力本願というものですが、それにしても、どうして「自力本願」という言葉が日本語にはないのでしょうか、以前から不思議なのですが。

五木さんによると、宗教という言葉は明治時代に作られた言葉だそうです。ここからは私の考えですが、恐らく明治政府は、キリスト教、(最初は耶蘇教 ヤソキョウ)も仏教も、イスラム信徒はポピュラーでなかったと思いますが、神道もあります。法整備上、特定する必要があって、宗教としたのだと思います。日本は世界でも稀な侍の国でした。つまり武士道、当然、己の力を信じなければ生きてゆけないところがあったはずです。そうなると自分を信じる。自力本願という言葉があっても不思議はないのですが、なぜ無いのでしょうか。知っている方が居たら教えて下さい。

>tangoya3さん

「他力本願」は仏教用語ですよね。わたしも詳しくありませんが、おそらく「自力本願」というのは仏教用語として意味をなさないのではありませんか。

たりき‐ほんがん【他力本願】 ‥グワン
(1)阿弥陀仏の本願。また、衆生がそれに頼って成仏を願うこと。
(2)転じて、もっぱら他人の力をあてにすること。
広辞苑

ただ「ない」とはいっても、「自力本願」という語を使えば何をもじったのかだれでもすぐにわかるでしょうから、お使いになってもよいのではと思います。
渡る世間は鬼ばかり」のようにユーモアや皮肉を込めて有名な句をもじるというのは、けっこうあることだと思います。

>samantabhadra_2319さん

先の回答にもありますが、「他力本願」は仏教用語です。

「本願」は「仏や菩薩が過去世において立てた衆生救済の誓い」のことですから、その前に「自力」が付くのはおかしいのです。
「他力」は「自力(自分の力)」に対する概念で、仏教では仏や菩薩のこと、特に浄土教では阿弥陀さんのことです。
これが組み合わさって、「他力本願」=「阿弥陀仏の立てた衆生救済の誓い」になります。

この「他力本願」の意味が、時代を経るごとに「他人さまの力にすがる」というような意味に変化して使われるようになりました。
その「他人さまの力にすがる」という意味だけを考えれば「自力本願」(自分の力のみを頼りにする)という意味があってもおかしくないわけですが、もともとが仏教用語の「他力本願」が意味を取り違えて広まったのですから、「自力本願」という日本語がない(なじみがない)というのは当たり前のような気がします。

また、武士道の「自分の力を信じていなければ」云々ということですが、まず自分の存在自体が自分一人で成り立っているわけではない、ということは、昔の武士なら誰でも考えていたのではないかなと思います。“お蔭さま”で生きているというのは、武士に限らず昔の日本人はみな、そのように考えていたと思います。
また多くの武士(特に歴史に名を残している武士)が仏教に帰依していた(基礎学問として仏教を知っていた)ことからも、「自分の力だけ」などという傲慢な考えを持っている人はいなかったのではないでしょうか。
ですから、「自力本願」などという言葉が生まれることはなかったのではないかと推測します。

>通りすがりさん
知恵袋を拝見してここへ来ました。関係のない書き込みですみません。

他力本願があって自力本願がなぜないのかという質問についてですが、他力に自力が含まれているからではないでしょうか。他力というのは、自力を放棄し誰かにまかせるという意味ではなく、自分の力の及ばないところ(思うに任せぬこと)、人知を超えた部分を他力と見ているだけで、自分自身はできるだけのことを全てやらなければいけないのです。意味的には「人事を尽くして天命を待つ」に近いと思います。人事を尽くす=自力 天命を待つ=他力 です。

具体例で言うと、ある人が農業をやっています。天候が悪ければ農作物の出来は悪くなりますし、良ければ質の高いものができます。この天候の部分は他力です。天候が良いときに良いものができるようにするためには、自分でできる部分は精一杯やっていないとダメですよね畑を耕したり、雑草をとったりする。これは自力です。この自力で出来る限りのことをやっていると。天候が良いという追い風が吹けば、自力以上のものができる。これが他力です。

ですので自力本願という言葉は現代の意味での他力本願に対する言葉とか、他力本願のパロディー的表現としては、ありですが、本来の意味での他力本願は自力を必要とするものですから、自力本願という言葉が無いのは自然なことだと思います。

神道とのかかわりについてですが、仏教のキーはトレランス(寛容)です。仏教でも派生、変化したものは違うことを言っているところもありますが、元々は寛容なのです。他の宗教や神道などがあってもそれを排除しようとしません。共存していこうとします。親鸞蓮如か忘れちゃいましたが、神社にお参りに行ってたくらいですからね。

なーるほど、他力本願の中に自力本願(こういう言葉はないが便宜上)が包含されていましたか。そう思いながら、これを書いている私と私の駄文を読んでいる皆さんは偶然、いや必然。私のブログ憲法は「世に偶然は一つだに無し 万有一切、超科学的原理によって生ず」というものです。なんですって、数学的に証明しろですって、だから数学は苦手なんですってばさ。

 皆さん3人入れば3人で「おっ!きたか、駆け付け三杯だ」なんていって楽しくやっているじゃあないですか。そこには笑みと楽しい語らいがあって、「おいTPPはどう思う」「無駄無駄。これは阻止しないと危ないぞ。何とかならんか」という話し合いがおきれば、そこから何かが変わるかも、だとしたら必然。必然を信じる国民と、必然を否定する国民、これ戦えばどっちに勝利がくるか。私は必然と考える方にかけますけど皆さんはどうですか。

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